
「タパス」の向こう側:サンティアゴのバルで育った私が知る、本当の「ピンチョ」の話
公開日: 2025-12-18
第一の区別:ピンチョは「つまみ」、タパは「一品」
日本で「タパス」と言えば、小さな料理を何品も頼んでシェアするスタイルが思い浮かぶでしょう。でも、私の故郷サンティアゴのバルに入ったら、まずそこでぶつかる土地のならわしがあります。
それは、「ピンチョ(pincho)」と「タパ(tapa)」は、区別して注文するものだということ。そして、その違いは「お金を払うかどうか」に集約されると言っても過言ではありません。
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ピンチョ:友情の証
「ピンチョ」は、文字通り「串」を意味します。昔はチーズやオリーブの一切れを串に刺した、本当にささやかなものでした。 今でもその精神は生きていて、ビールやワインなどの飲み物を注文すると、お店の計らいで無料で出される小さなおつまみです。今日はハモンの一切れかもしれないし、温めたてのトルティージャの一切れかもしれない。メニューには載っておらず、「おまけ」です。バーの主人と客との間に生まれる、ちょっとした親しみやおもてなしの心を形にしたものです。それを探しに、地元の人たちは「ピンチョ目当て」にバルを巡ることもあります。
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タパ:小皿料理の正式な注文
一方、「タパ」は正式にメニューに載っている小皿料理で、それを食べたいと思ったら注文し、もちろん別途お金を払います。 「ピンチョ」がお店からの一方的な「サービス」なら、「タパ」はお客さんが自分で選んで注文するものです。皿に盛られ、サイズも少し大きめです。イカのフリットやピミエント(パプリカ)の詰め物、ガリシア名物のポテトのオレア(揚げ物)などが代表的です。「今日はあのタパが食べたい」と、目的を持って注文するんです。
私の教室では、この違いをよく「ピンチョはお店からの『どうぞ』、タパはお客さんからの『ください』」と説明します。この単純だけれど根本的な区別を知るだけで、スペインのバルに入った時の見え方が少し変わるはずです。
ピンチョの隠れた経済と、タパという選択
次によく聞かれるのは、「じゃあ、それらは何でできているの?」です。つまり、バーはどういう考えでピンチョとタパを決めているのか。
サンティアゴのバルの裏側には、厨房の経済とある種の美学があります。
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ピンチョ:無駄をなくす知恵と、気前のよさ
ガリシアのピンチョは、**「出来上がった料理の一切れ」**であることが多いです。エンパナーダ(具入りパイ)やトルティージャ、オレッハ(豚の耳の煮込み)などの一部。 不文律はこうです。客には無料だがバーにはコストがかかる以上、ピンチョには「別のサービスで作ったものの残り」を出すことが多い。昼のコシド(煮込み料理)の残り、売れ残ったエンパナーダの端っこ…。質が落ちるわけではありません。逆に、前もって考えられた「計画的な余り物」です。すでにあるものを使うので、追加の手間がかからない。無駄をなくす知恵が、おもてなしの心に昇華された瞬間なのです。
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タパ:選ばれるためにふさわしい瞬間
タパはお金を払って選ぶものなので、別の次元にあります。前日からあるもの(前日のクロケッタ)もあれば、客が注文してから作る小さな贅沢(イカの塩辛焼き、アルバリーニョ煮のアカガイ)もあります。 教室ではこんな例えをします。「今日の料理教室でローストビーフが余ったとしましょう。翌日、その肉をほぐしてベシャメルソースと合わせてクロケッタを作ります。これが今日のピンチョです。でも、お客さんが一つ食べて『すごく美味しい!タパをください』と言ったら、6個をお皿に盛ってお金をいただきます。料理自体は同じでも、意図(サービスか注文か)と量がすべてを変えるのです」 これがサンティアゴの多くのバルの実際の流れです。余り物がプレゼントになり、そのプレゼントが欲望と売上を生む、絶え間ない循環です。
私の体験:ガリシアの「ピンチョ」と日本の「お通し」
ここからが、私の日本での日常生活と理論がぶつかり合う部分であり、教室で最も興味深い会話が生まれるところです。
日本に住み始めた時、「お通し」という文化を理解するのに随分と時間がかかりました(今でも完全にはしっくりきていません)。一見ほぼ調理の必要がなく、選択の余地もなく、それに対してお金を取られる。時にはビール代より高いこともある。慣れるのに苦労しました。正直に言えば、今でもしっくりきていません。
時間と信頼関係の中で、私は自分の小さな居場所を見つけました。時々行く居酒屋(女将が私の隣人です)では、もうお通しは出してくれません。この親しみから生まれたちょっとした気遣いで、請求額もかなり安くなり、飲んだものや自分で選んで食べたものだけを支払うことになります。これが、私がここで見つけた「ピンチョ」の精神に最も近いものかもしれません。ルールを変えてしまう、信頼の気持ちです。
消えゆく伝統と、残る温もり
この二つの世界の共存は、私に懐かしさと少しの憂いを込めてサンティアゴを振り返らせます。ガリシアには特別な日、例えば金曜日があります。多くのバルが**「特別ピンチョ」**(チュラスコやポルポ・ア・フェイラなど)を用意する日です。飲み物を注文するたびに一つもらえます。結局、ビールを2、3杯飲めば…もう夕食が済んだも同然です。素晴らしい社会的儀式です。
しかし、残念なことに、帰るたびにこの習慣が失われている店をより多く目にします。単純に、何か食べたければタパを注文してお金を払う。これがグローバルな論理なのでしょう。それでもなお、伝統を大切にしているお店は今も残っています。そんな店に入り、ビールを一杯注文して、目の前に予期せぬ小さな贈り物が置かれる感覚は…たまらなく嬉しいものです。まるで家にいるような、客という枠を超えた気分になれる瞬間です。
そして、秘密はそこにあると思います。食べ物自体ではなく、それが象徴するものに。見返りを求めない気遣い、欢迎(ウェルカム)、ちょっとした共犯関係。ますます取引が中心になるこの世界で、それはなかなか見つからない贅沢です。日本の教室から、私はそれを説明しようと努めています。単なる食の好奇心としてではなく、どうか完全に消えてしまわないでほしい、ひとつの人生哲学として。